防災・減災シリーズ(地震リスク):関東大震災から100年
2024.6.14
関東大震災とは
1923年9月1日(大正12年)11時58分に相模湾を震源として大正関東地震が発生しました。その被害は神奈川県、東京都をはじめとする首都圏において建物倒壊や広域の延焼火災を引き起こしました。死者・行方不明者は約10万5千人、全壊家屋約8万棟、焼失家屋約21万2千棟という甚大な被害となり、そうした被害を総称して関東大震災と呼ばれています。
2023年に関東大震災から100年の節目の年を迎えました。過去の震災や教訓、日本の地震リスクを取り巻く環境変化を振り返ることが重要です。過去から克服されつつある課題や残存する問題点に着目し、企業の組織的対策や従業員一人ひとりの対策として求められる地震災害への備えを改めて考えることが重要です。
関東大震災の特徴
日本はこれまで多くの大地震に見舞われ、甚大な人的被害、住家被害が発生しています。地震による被害として、最近では東日本大震災の津波が強く印象に残ります。しかし、地震による被害は地震の発生場所、気候条件、さらには都市計画等によって被害を発生させる事象が異なります。「大震災」と呼ばれる3つの震災である、関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災の被害状況であり、各地震で「死亡・行方不明者数」の主要因が異なります。
関東大震災では焼死、つまり地震火災により多くの人的被害が発生しています。阪神・淡路大震災では、地震による建物の倒壊、東日本大震災では津波による被害が支配的でした。関東大震災が発生した1923年(大正12年)は、明治維新以降の都市整備による耐火造の増加や、ポンプ自動車の導入といった消防対応力の強化により、従来よりも大火が減少していた時期でした。そんな最中に関東大震災では大火が発生し、多数の犠牲者を出すという結果となりました。
関東大震災では複数個所で同時に火災が発生し、消防による消火が追いつかない中で、激しい気象変化も重なり延焼範囲が拡大しました。当時の都市構造は区画整理されていない (建物間に道路、公園等の延焼防止機能がない) 木造住宅密集地域が形成された状態でした。防災のための都市整備が十分ではなく、東京では46時間にわたって延焼が続きました。当時、東京では月に1度しか吹かないほどの強風であり、風向きは地震発生日の昼すぎまで南風、夕方は西風、夜には北風となり、さらに翌朝からは再び南風となっていました。この強風と風向の変化が避難者の逃げ遅れや逃げ惑いを生じさせ、甚大な被害につながりました。
焼死者数が突出して多い本所被服廠跡では、多くの避難者が集まっているところに火災旋風が発生したことが知られています。地震火災発生時に命を守るためには、どこに避難するのかが重要です。
現代に生きる都市防災
関東大震災の大火による被災範囲は約4,500haに及びました。震災直後に国は帝都復興計画を策定し、震災翌年の1924年(大正13年)1月に施行され、東京市(当時)は1930年(昭和5年)、横浜市は1929年(昭和4年)に復興事業がほぼ完了しました。区画整理や街路の拡幅、橋梁の建設、公園の新設などが実施され、その都市構造は現在も基本的に引き継がれています。
昭和通りなどの幹線道路の多くはグリーンベルトを伴ったもので、都市景観の観点からも都市防災の観点からも評価されています。帝都復興計画の考え方は、第二次世界大戦後の戦災復興でも活用され、広島市の平和通り、名古屋市の大通り公園など100m道路を設置した地方都市の復興が進められました。 現在でも延焼遮断帯としての区画整理、避難場所の確保、木造住宅密集地域の整備などが地域ごとに実施されています。継続した都市整備の結果として、1946年~1970年ごろまで大火がほぼ毎年発生していた状況から、数年に1度まで減少しています。